烈海の艨艟 対米戦勝利の方程式
龍人沼
覇者の曙光
第1話 浦塩艦隊捜索
ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー提督が指揮統率するロシア海軍第2太平洋艦隊はウラジオストックを目指す長征の途中、遅れてロシアから出航した第三太平洋艦隊との邂逅のため1905年4月14日にフランス領インドシナのカムラン湾に入った。
同地でのロシア艦隊の待機は月をまたいだ5月9日に第三太平洋艦隊が到着後も続き、前年の10月15日の出航から数えれば既に7か月にも亘らんとする大航海の最後の道程に向かうため艦隊が仏領インドシナを離れたのは5月14日のことだった。
合流を果たしたロシア艦隊がウラジオストックに向け出発する4日前の5月10日、日本近海においてロシア艦隊を待ち受ける日本艦隊の混乱と戦力分散を図って2隻の防護巡洋艦が当時ロシア艦隊が停泊していたバンフォン湾を出港した。
分派されたオレークとアヴローラの両艦は日本の太平洋沿岸を進み、鹿児島や銚子など数か所に艦砲射撃による被害を与えたほか遭遇した沿岸航行の船舶に対しても攻撃を行った。
これに対し日本海軍はバルチック艦隊の迎撃に総力を向けるため敢えてこの巡洋艦隊へ対処するための戦力投入を行わなかった。
津軽海峡を通過した2隻のロシア巡洋艦は、対馬近海で二日間に亘って日露両艦隊が戦った日本海海戦の翌日に損傷を受けることもなく無事ウラジオストックに入港した。
ロシア巡洋艦2隻によるウラジオストックを拠点とした通商破壊戦が再び開始されたとき、多数の主力艦が修理や整備のため戦列から離れていた海軍は一時的ではあるが有効な対抗手段を持つことができなかった。
太平洋、日本海と神出鬼没に現れるロシア艦への哨戒線は広大な範囲になったため、巡洋艦や駆逐艦だけでなく航洋力に問題のある水雷艇などの中小艦艇までもが太平洋やオホーツクに駆り出されることになった。
幾度と無く接敵の機会は訪れたが、駆逐艦程度の戦闘力では追尾するのが精一杯で反撃を受け戦没する艦艇さえあった。
荒天が続く北太平洋では巡洋艦以上の艦艇でなければ波浪や強風の中自艦の航行さえままならない状況になることもあり、悪天候のなか運悪く遭難する艦艇も出るほどだった。
最終的にロシア巡洋艦隊はウラジオストック帰投時を第2艦隊に捕捉され壊滅してしまうのだが、この一連の戦訓は日露戦争以降の日本海軍の艦艇設計に大きく影響を与えることになった。
日露戦争を日本海海戦の勝利によって乗り切った日本海軍だったが、1906年に進水したイギリスの新造戦艦ドレッドノートの登場と新たな仮想敵国としてのアメリカの出現という衝撃に従来の日本海軍の戦略は大きく揺さぶられることになる。
ドレッドノートの先進性が明らかとなった時、その頃日本海軍が保有していた鹵獲ロシア艦を含めた前弩級艦は新造の香取・鹿島、建造準備中の薩摩・安芸に至るまですべて旧式艦となった。
ドレッドノートの建艦思想を踏襲し続々と各国海軍が弩級艦を計画建造する中、ホワイトフリートと呼ばれるアメリカの大艦隊が日本に来航した。
連なる艨艟の群を迎えた日本海軍は、強大な国力を持つアメリカがロシアに代わって日本の第一仮想敵国として圧倒的な存在となったことを思い知らされた。
当時混乱を極めていた海軍艦政ではあったが、この新たな脅威に立ち向かうべく大きな決断を下すことになる。
海軍はこの当時日露戦争の影響での大量の主力艦の建造計画に加え、日露戦争の戦利品であるロシア艦の戦力化に力を割いていたが、戦利艦であるロシア戦艦の改修の中止し売却することを決める。
さらに日露戦争で戦った中小艦艇のうち旧式化したものを多数退役させた。
また当時建造中あるいは計画中の艦艇のうち戦術思想的に旧態化しているものへの建造中止令が出される。
そして海軍艦艇の建艦計画の大幅な見直しが行われた。
主力艦の建造については、既にこの時期前弩級艦の薩摩・安芸、装甲巡洋艦の鞍馬・伊吹とも建造が進んでおり、中小艦と違い建造を中止した場合の影響の大きさのため建造は変更無く続けられている。
中小艦艇の建造における大きな変化として象徴的だったのは駆逐艦の大型化の推進だった。日露戦争における駆逐艦の戦いは、黄海日本海の二大海戦と第二次浦塩艦隊追撃戦の中でその可能性と限界の両方を見せていた。
きたるべき段階、太平洋を新たな主戦場と定めた戦術構想の中では、従来型の駆逐艦は戦闘力、航洋性能、航続力などあらゆる面において既にその活躍の場を失っていた。
海軍としての日露戦争の勝利がほぼ確定した浦塩沖海戦の勝利からまもなく、海軍は従来型の駆逐艦に限界を感じ当時国内で多数建造中だった駆逐艦の工事を竣工間近のものを除いて全て中止し新世代型駆逐艦の整備構想に取り掛かった。
長期間の外洋での行動を前提とするための航続力の増加、凌波性の向上、武装の強化などに伴う艦型の大型化や新型機関の開発など、新世代駆逐艦の中核をなす全てが、新興国である日本の海軍にはいまだ手が届かない新技術だった。
海軍は新世代の駆逐艦の開発にあたって同盟関係にあったイギリスの造船企業ヤーロー社に、プロトタイプとすべく新設計の大型駆逐艦浦風型4隻を発注した。
要求された性能は排水量950トン、速力32ノット、主砲12センチ砲2門、45センチ連装発射管2基4門、さらに新技術の重油石炭混焼式のタービン機関の搭載と、当時の駆逐艦としては最新のスペックが求められていた。
海軍は新世代駆逐艦の大量配備を実現するため、浦風型の武装や航続距離速力などをスペックダウンしレシプロ機関を搭載し若干艦型を小型化した二等駆逐艦櫻型10隻を浦風型の技術を流用して国内で設計建造した。
その後も新世代駆逐艦の整備は積極的に進められ、第1次世界大戦が始まるまでに、一等駆逐艦3タイプ14隻、二等駆逐艦2タイプ18隻が艦隊に配備されることになる。
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