第9話
お風呂を済ませ、夜ご飯にインスタントのお味噌汁を飲もうとしたときには、22時半を過ぎていた。泰正から電話がかかってきた。2人が飲んでいる夜に彼らからこうして何度か連絡が来ることは、特段変わったことではなかった。
「はい」
電話を取る。スピーカーから室内へと泰正の声が広がっていく。
『春、今家?』
「うん」
『柊弥がつぶれてさ、春の家送ってもいい?』
「ああ、やっぱつぶれたか。ごめんね、迷惑かけて。どこの店? 私迎え行くよ」
『いい、いい。もう遅いし、春は家にいて』
「でも、」
『まじであぶねえから。な?』
泰正といると、自分がいつか子どもだったころのことを思い出す。
同時に、自分が「女」だということも。
30分ほどで、へべれけに酔った柊弥を連れて泰正がやって来た。柊弥をベッドに寝かせ、間仕切りを動かして寝室を閉ざすと、泰正と2人きりになった。また私、第三者からの干渉があるまで、この世に泰正と2人きりになったと痛い錯覚をするんじゃないか。恐ろしい考えがよぎった。
ソファに並んで座る。泰正を見なくても不自然じゃない並びがいい。泰正の観察癖が発動されても、見透かされるものは横顔に――顔半分の情報に留めたい。何としてでも。
この思考こそが自白みたいで、嫌になる。
「ごめんね、柊弥重かったでしょ。迷惑かけた」
「春が謝ることじゃないだろ」
「柊弥、泰正にすごく懐いてるから、楽しくてお酒をたくさん飲んじゃうんだと思う。だからって迷惑かけていい理由にはならないけど」
「俺も好きで柊弥と飲んでんだから、それ以上はお姉ちゃん、ごめんはなしで」
「んー。じゃあ、ありがとう」
「うん」
謝罪を終えればもう、何をしていいのかわからない。沈黙を沈黙として問題視することこそ後ろめたい。後ろめたさはこれ以上いらない。私はまた、泰正を見送ったあと安堵したい。ああ、よかった、今日も泰正の敵にならなかった、って。
コーヒーを淹れようと考えて、キッチンに向かう。
愚弟は、泰正と飲むと、十中八九酔って眠る。眠った柊弥を私の家に運んでくれた泰正は、その夜うちに泊まっていく。大男の介抱が大変だろうという優しさからくると勝手に思っているが、単に、大柄の男を運んで疲れて、家に帰るのが面倒くさくなってしまうのかもしれない。
泰正と私はソファに並んで夜を過ごす。コーヒーを片手に話をしたり本を読んだりしながら、寝ずに一晩過ごそうとする。未だかつて徹夜がうまくいったことはないけれど、今夜は「寝ない」という意思を互いに握りしめて、コーヒーをすすっている。
電気ケトルに水を入れ、スイッチを入れる。マグカップを2つ用意してドリップパックをセットする。沸騰を待つ。勢いよくケトル内部の水が揺れ動き始めるのを待つ。
こういう夜にコーヒーを飲もうと言い出したのはどっちが先だったっけ? 言い出しっぺよりもお互いに同意したことの方が重大か。ベッドを共有しないように、静寂がテレビの音で破られるべきだと考えるように、腰を下ろす場所にソファの両端を選ぶように、私たちは「眠らない」と決めた。
電気ケトルが止まった。お湯を注ぐ。香りが立つ。ぽつりと「コーヒーの匂いだ」と呟けば、泰正は目を向けた。彼は幼稚な感想を嗤うことなく、黙って目を細めた。
ソファの両サイドで思い思いの体勢で、コーヒーを片手に本を読む。泰正は肘置きに頭を乗せ、ほとんど寝ころがってくつろいでいる。ソファを均等に分け合おうという思いやりの心が見当たらない。時折、足先が触れ合う。靴下を履いていればよかったとそのたびに思って、本の世界から引き戻される。わずらわしい。邪魔くさい。でも、足の位置は動かさないし、泰正に注意することもない。
どうかしている。
ページをめくる音と、マグカップを取り、また戻す動作。それから、たまにコーヒーを淹れに立つ気配に、「もう1杯どう?」の声。あとは、寝室からかすかに聞こえてくる、柊弥が寝返りを打つ音くらい。
部屋に満ちているものは数えられる。だから、泰正と過ごす夜が苦手。指折り数えて済ませられる程度の音を内包した静寂が、物を言うから。
聞きたくないのだ。何と言っているかまではわからないにしても。
明け方3時ごろだった。泰正が首を折り、本を胸に落とした。目をやれば、寝息を立てて眠っている。寝顔に感化されたのか、ふとあくびがこぼれた。目がかすんでいることに気付く。私も限界を迎えている。
そっと立ち、マグカップをシンクに運び、ブランケットを2枚重ねて泰正にかける。胸の上の本は、泰正が指を挟んでいたページにそこら辺にあったちらしを挟んで、テーブルに置いておいた。電気を消す。常夜灯はつけない。もう一度あくびをしながら手探りで洗面所に向かい、歯を磨く。鏡を見れば冴えない女がいてげんなりする。前髪が変なところで分かれている。こんなありさまで泰正と話していたのか。前髪を手で整えながら、心の内に焦りや悔いを見つけて、私は漠然と嫌だなあと思う。
部屋に戻る。目が暗闇に慣れるのを待ってから、忍び足でソファに近付き、端っこに腰を下ろす。眠気はあるが眠りたくはなく、スマホを触った。
スマホですることは限られている。YouTubeを見るか、ろくろく更新していないインスタグラムを開いて、友人知人の投稿に目を通し、たまにいいねを押すくらい。YouTubeは今、見られる環境にないし、インスタの方も交友関係が広くないのですぐに終わる。そのあとは、インスタが勝手におすすめしてくる写真やリールに目を通す。飽きるまで延々と。
泰正がわずかに身じろぐ。
動かないと思い込んでいるものが動いて、無駄にどきりとする。
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