〈二十六〉生きたい

 疲れていたけれど、長くは眠れなかった。

 誰かに肩を揺すられる。それは男の手だった。

 虎之助かと思いきや、吉次だった。


「おい」

「ん……」

「すげぇうなされ方だったぞ」


 暗がりで、吉次の表情はよく見えなかった。琴平が寝ぼけて唸り声でも上げていたのか、起こしにきたらしい。


「すみません……」


 うるさかったのだろう。覚えていないが謝った。そうしたら、吉次が隣に座った。


「お前さん素直そうな顔をしてたが、嫌なもんを抱えてやがるな」

「……どういう意味ですか?」


 琴平は額の汗を拭きながら首を傾げる。光源がないので見えないけれど、吉次が表情を緩めたように感じた。


「いや、唸りながら『殺してやる』って繰り返してたぞ」


 殺してやると。

 それは意味のない言葉ではなかった。


 結局、母の死は下手人不明のまま片づけられてしまったのだ。琴平は、あの長屋の誰かだろうとずっと疑っているけれど、そんな隙はなかったと誰もが言ったらしい。死んだのは長屋に住むただの子連れの女でしかなく、きっと身を入れて調査しらべはしてもらえなかったのだろう。


 繰り返し、母が死んだ日のことを夢に見る。母の死を嘲笑う人々の歪んだ顔を前に、琴平はいつも殺してやると叫んでいた。

 お前たちが死ねばよかったのにと。母を殺したのがあの中の誰かではなくとも、母の死をいい気味だとわらったのだ。死ねばいい、むしろ殺してやりたいと怨んだ。


 心は真っ黒に塗り潰され、もう元には戻らない。虎之助が助けてくれたから、まだ人として生きていられたけれど、他人を怨む気持ちを覚えてしまったことはどうにもならないのだ。


 あの人たちに再び会うことがあって、今のように刀を差していたら斬るだろう。そんなふうにさえ思う。

 けれど、何も言わない琴平に、吉次はどこか穏やかな声音で語りかける。


「俺も殺してぇやつがいっぱいいる」

「そんなこと……」

「本当にったわけじゃねぇから心配すんなって」


 薄暗い話をするわりに朗らかなものだった。笑い声まで立てている。


「俺は捨て子でな、盥回しだろうと死なねぇ程度には食わせてもらったけど。それで、さあ自分の口は自分で養えって奉公に出された後、まあ兄弟子からいびられた。でもよ、馬鹿が多くて自滅してったから、仕返しする暇もなかったな。人は嫌いだったが、草木は丁寧に扱ったから、仕事の出来は褒められて、気づけばそれなりに大きい仕事も回してもらえるようになってよ。今回の植えつけを上手くやれば暖簾分けしてやるって言われてたんだ」


 商いのことはよくわからないけれど、暖簾分けをして店を任せられるには吉次はまだ若いように思う。そんなにも若い吉次に今回の仕事を任せたのは、腕が良いのはもちろんのこと、他に何か理由があったのだろうか。

 その理由を、多分吉次自身がよくわかっている。


「うちのおたなでは毎年ここの桜の植えつけに職人を向かわせていて、その後は皆戻ってこなかった。それは暖簾分けして上方かみがたへ行ったからだって聞いていたが、まあ騙されたんだろうな。俺もこの里から戻ったら消されたに違ぇねぇや」

「まさか……。どうしてそう思うのですか?」

「この里の存在をおおやけにしたくねぇってこったろ」


 吉次は苦々しく吐き捨てる。それは勤めていた店に裏切られたからなのか、もしくはもっと大きな神仏のようなものに努力を踏みにじられたからなのか、どちらだろう。


「この里はな、やっぱり異常なんだよ。ただの遊廓なんかじゃねぇ」


 自分で物を考え、そこに行き着いてしまう吉次だから、いずれは邪魔になった。そうなのだろうか。


 幕府公認の第四の遊廓――。

 それは人を殺めてまで隠しておかねばならないことなのか。


 こんな場所に毎年新しい桜を植えようとしているのも、改めて考えると変だ。植えっぱなしにしておけば次の年にはまた咲くものを。


 琴平が考え込んでも、琴平の頭ではわからなかった。吉次は微かな音を立てて胡坐を組み直す。


「それと、いつかお前さんと一緒に思川太夫の道中を見たな?」

「はい」


 夢のように美しい光景だった。しかし、吉次はその何かに引っかかっている。


「道中ってのはな、愛しい男に会いにく道行だ。つまり、遊女が呼び出しを受けて客に会いに置屋から揚屋へ行くってことになるんだが、俺たちがこの里に入ってから客は来たか?」

「そう言われてみると……」


 それらしい男は見ていない。琴平が知らないだけで、静かに里へ入り揚屋にいたとも考えられるが、どうなのだろう。もしそうなら、その客もこの里に閉じ込められているかもしれない。道中につき従っていた采璃なら何か知っているだろうか。


「まあ、客がいてもいなくても、俺たちにはどうだっていいけどな」


 吉次はそこで短く息をつく。


「俺たちは小さな体で桜を食い潰す虫じゃなく、ただ潰されて死ぬだけの雑魚なんだろう」

「あんな木に太刀打ちできる虫なんていません」

「いや、桜ってのは案外弱いところもあってな、小せぇ虫に食われて枯れることもあんのさ」


 それでも、あの木は特別なのだと思う。木が特別なのか、それとも、カセイが特別なのか。

 あの木をただの桜に戻す方法があればいいのに。


「――なあ、お前さんはまだ生きてぇか?」


 不意に吉次がそんなことを訊ねてくる。その直截な言葉に琴平は思わず息を呑んだ。

 今の琴平には何もない。母も亡く、帰る家さえない。仕える人は琴平に忠節を望んでいない。

 どこに希望があるのだ。生にしがみつくには、今の琴平は何も持たなかった。


 答えきれず愕然としている琴平に、吉次は苦笑した。


「俺は、なんつぅのか、生きてぇなって思ってる」


 それを意外に思った。吉次のような男は命にも頓着しないのではないかと勝手に決めつけていたのだ。


「少し前まではそうでもなかったんだが、時永と出会っちまったからな。あいつともう少し一緒にいてぇから、まだ死ねねぇなって」

「……会ったばかりなのに?」


 虎之助と松枝の間には長い歳月がある。けれど、吉次と時永は違う。そんなにもすぐに深い繋がりが芽生えるものなのだろうか。

 その疑問には吉次の柔らかな声音が答えてくれる。


「会ったばかりなのにだ。前の日までいつ死んでも惜しくねぇと思ってたのに、人生ってのはわかんねぇな。たった一日で様変わりしやがる。だからこそ面白ぇのかもしれねぇけどな」


 そして、吉次は立ち上がると振り返らずに戻っていった。


 生きたいと願う人がいるのなら、生きられたらいい。命は奪われるべきではない。

 カセイは人の命も想いも、桜ほどには関心がないのだろうか。

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