第34話 緊張感張り詰める芝居小屋
江戸の夜は静まり返り、ほんのりした月明かりが町を照らしていた。しかし、中村座の周囲だけは異様な雰囲気に包まれていた。周辺を見回す役者たちや裏方は、昨夜の妨害が再び起こるのではないかと神経を尖らせていた。
勝俵蔵と春景は、そんな緊張感の中、さらに脚本を練り直していた。新作の内容は藤堂屋の策略を風刺するものだったが、それだけでは観客を引きつけるには足りないと感じていた。
「このままじゃ、ただの皮肉に終わっちまうな。もっと強い意志を入れる必要がある。」
俵蔵はそう言って、机に広げられた草稿をじっと睨んでいた。
「確かに……藤堂屋を表立って批判するだけでは、観客には響かないかもしれません。それよりも、江戸の庶民の苦しみや希望を描くことで、彼らの共感を得るのはどうでしょう。」
春景の言葉に、俵蔵は大きく頷いた。
「いいぞ、春景。お前も少しはわかってきたじゃねえか。観客にとっちゃ、舞台は娯楽であり、救いでもあるんだ。」
その頃、宗右衛門の家では、美鈴が春景の帰りを待っていた。普段は穏やかな彼女も、この数日の騒ぎには不安を隠せない様子だった。
「春景さん、大丈夫かしら……。」
彼女の呟きに、宗右衛門が湯飲みを傾けながら答えた。
「心配するな。あいつはこう見えて肝が据わってる。今頃、俵蔵先生と一緒に新しい芝居を作ってるだろうよ。」
しかし、内心では宗右衛門も気が気ではなかった。藤堂屋のような大店を相手にするのは並大抵のことではない。ましてや、商売が絡む争いは、一歩間違えれば命取りになることもある。
翌日、春景は藤堂屋の動向を探るため、再び町に出た。裏通りで耳を澄ませていると、藤堂屋の手下らしき男たちが話しているのが聞こえてきた。
「旦那が次に仕掛けるのは、中村座の興行そのものを潰すことだそうだ。」
「どうやって?」
「新しい劇場を建てて、人気の役者を金で引き抜くんだとさ。」
その言葉を聞き、春景は愕然とした。藤堂屋は妨害だけではなく、根本から中村座を倒そうとしている。
中村座に戻ると、春景は俵蔵や勘三郎にすぐにその情報を伝えた。勘三郎は苦い顔をして天を仰ぎ、深く息をついた。
「奴ら、そこまでやるつもりか……。」
「でも、まだ負けたわけじゃありません。」
春景の言葉に、勘三郎は目を見開いた。
「春景、何か考えがあるのか?」
「はい。藤堂屋が新しい劇場を建てる前に、中村座の本当の強みを観客に見せつけましょう。」
俵蔵はその言葉ににやりと笑った。
「いいねえ。中村座が江戸一の芝居小屋だってことを、舞台で証明するんだな。」
その夜、春景と俵蔵は本格的な脚本作りに取りかかった。新作のテーマは「運命の選択」と「庶民の絆と希望」だった。藤堂屋の策略を暗に風刺しつつ、観客に笑いと感動を届ける作品を目指していた。
「でも、ただ風刺するだけじゃなくて、役者たちが真剣に演じられる役を作らなきゃな。」
俵蔵のアドバイスに従い、春景は登場人物たちに個性を持たせ、彼らの成長や葛藤を物語に組み込んでいった。
翌日から、中村座では新作の準備が本格化した。役者たちは稽古に励み、裏方は舞台装置や衣装の調整に余念がなかった。しかし、藤堂屋の手下たちが新たな妨害を仕掛けてくるという噂が広がり、現場には常に緊張感が漂っていた。
そんな中、俵蔵は稽古場で役者たちに檄を飛ばしていた。
「いいか!この舞台は中村座の命運をかけたもんだ。お前たち一人一人が、この芝居の魂を担ってるんだぞ!」
役者たちはその言葉に奮起し、稽古の熱気はさらに高まった。春景もその様子を見て、自分の脚本にどれだけの責任がかかっているのかを改めて実感した。
舞台の初日が近づくにつれ、江戸中の注目が中村座に集まっていた。一方で、藤堂屋の動きも活発化していた。中村座の周囲には、藤堂屋の手下らしき者たちが徘徊し、何かを企んでいるようだった。
しかし、春景や俵蔵、中村座の役者たちは決して動じることなく、準備を進めていった。彼らの胸には、舞台の成功を通じて江戸の庶民に希望を届けたいという強い思いが宿っていた。
(この舞台は、中村座だけのものじゃない。江戸の庶民全員のためのものだ。)
春景は心の中でそう誓いながら、最後の仕上げに取りかかった。
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