第28話 商売敵
夕刻、春景が宗右衛門の家に戻ろうとしていた時のことだった。市場を抜けて賑やかな大通りに差し掛かると、突如として普段と異なる緊張感が漂っているのを感じた。耳を澄ませると、怒号のような声がかすかに聞こえる。声の方角に目を向けると、商人たちが集まって何か口論している様子だった。
「また宗右衛門のところのせいか!」
「いい加減にしろ、こっちの商売が立ち行かなくなる!」
春景は自然と足を止め、そのやり取りに耳を傾けた。言葉の主は市場の有力者である大店の主、藤堂屋喜兵衛だった。喜兵衛は肩を怒らせ、手下を従えながら宗右衛門の商売を批判していた。彼の言葉には商売上の嫉妬と敵意が露骨に現れていた。
「宗右衛門め、あんな安値で良い品を売られちゃこっちは太刀打ちできねぇよ!」
「こっちは品質と信用で勝負してるんだ、それを踏みにじる気か!」
その口調は険しく、周囲の商人たちは萎縮して何も言えないでいる。春景はその様子を見ながら胸の中に不安が広がるのを感じた。藤堂屋のような大店に目を付けられれば、宗右衛門の商売にとっても大きな障害となることは明白だった。
「あの男たち、ただの言い争いでは済まないかもしれない…。」
春景は急いで宗右衛門の元に戻ると、市場で見聞きしたことを報告した。
「宗右衛門さん、藤堂屋の喜兵衛という商人が、あなたの商売を目の敵にしているようです。市場であなたを非難する声が上がっていました。」
宗右衛門はしばらく黙って聞いていたが、やがて深いため息をつき、渋い表情を浮かべた。
「そうか、とうとう動き始めたか…。あの藤堂屋は商いの腕も確かだが、時に手荒な手を使うことで知られてる。うちみてぇな木綿問屋は脅威になるだろうよ。」
「どうするつもりですか?」と春景が尋ねると、宗右衛門は力強い眼差しで答えた。
「商売の勝負はあくまで正々堂々とだ。それに俺には負けるつもりもねぇよ。ただし、用心は必要だ。あいつが裏で何を企んでいるかわからねぇからな。」
宗右衛門の言葉には商人としての矜持がにじみ出ていた。春景はその姿勢に感銘を受けつつ、自分も何か力になれないかと考え始めた。
その日の夜、宗右衛門の家では急遽、主要な取引先や仲間たちを集めた会合が開かれた。宗右衛門は、今後の商売の方向性や新たな商品の売り出し方について、具体的な策を講じるための話し合いを始めた。春景もその場に同席し、江戸の商売人たちがどのように協力し合い、時に競い合うのかを学ぶ機会を得た。
一方で、勝俵蔵の家でも動きがあった。俵蔵は宗右衛門からの要請を受け、新たな舞台で木綿の商売を取り入れるアイデアを練り始めていた。江戸の観客を驚かせるための新しい演出を考えつつ、商売と芝居をどう融合させるかを模索していた。
「江戸の連中は、ただの物売りじゃ飽き足らねぇ。芝居の中で木綿がどれだけ役立つもんか、それを見せりゃいいんだ。」
俵蔵は独り言のように言いながら、春景にも意見を求めた。
「お前さんならどうする?観客が舞台を見て、木綿を買いたくなるような仕掛けだ。」
「例えば、木綿がいかに日常生活で便利かを描写するのはどうでしょうか。芝居の登場人物たちが木綿を使う場面を通して、その価値を自然に伝えることができるかと。」
春景の提案に、俵蔵は「なるほど」と頷きながら「やっぱりお前さんの考えは面白ぇな」と感心した。
こうして、宗右衛門の商売を軸にしつつも、江戸の舞台と観客を巻き込む新たな企画が動き出そうとしていた。
翌朝、重兵衛が慌ただしく駆け込んできた。
「兄さん!市場で何かが起きたって!お父っつぁんも急いでる!」
春景と俵蔵は顔を見合わせ、すぐに外へと飛び出した。市場に到着すると、そこには先日目にした藤堂屋の手下たちがまたしても騒ぎを起こしていた。
「宗右衛門の品が安すぎるせいで、うちの売り上げが大打撃だ!ただじゃ済まさねぇぞ!」
周囲の商人たちも巻き込まれ、混乱は広がる一方だった。春景は状況を静観しながら、何とか事態を収拾する方法を考えようとした。
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